「ゐ」「ゑ」の廢棄等に關して(中井茂雄)

ソプラノ歌手の藍川由美氏は「狹霧消ゆる港江(え)の/舟に白し朝の霜/ただ水鳥の聲(こゑ)はして/いまださめず岸の家(いへ)」の歌を通して、この歌詞に含まれた「え」「ゑ」「へ」(ルビ部分)はそれぞれ異なる音であることを示された。

このことに關して國語學者の山田孝雄(よしを)は「文部省の假名遣改定案を論ず」(大正十三年二月發表)の中で次のやうに述べてゐる。(註・大正十二年十二月二十四日に臨時國語調査會は假名遣改定案を滿場一致で可決したが、その第一に「ゐ」「ゑ」を、「い」「え」と同音であるといふ理由で廢棄するとしてゐる。)

「……『ゐ』『ゑ』の二音は發音上、『い』『え』となれりといふ論あらむ。如何にも國語調査會の例示せる如きにはその如くに發音すといふを得む。されどこの文字のあらはす發音は國民間には存在せるものなり」と。山田孝雄は「い」と「え」、「ゐ」と「ゑ」とは異なる音であると指摘してゐるのである。そしてこの事は「少しく聲音學の智識を有するものならば、誰にも心づかるべきことなり」と言ひ、「粗雜なる世俗的の智識を以て俗人にこの音の有無を問ひ、彼らが無しと答へたりとて、直ちに無しとするが如きは大早計の事なりといふべし」と述べてゐる。

さらに次の如く指摘する。「かくて又『ゐ』『ゑ』の廢棄よりして五十音圖と伊呂波歌とは當然廢棄せらるゝに至らむ。國民は果してこれを容認すべきか。今伊呂波歌は姑(しばら)く措き、五十音圖の如きは國語の組織を説明せむが爲に案出せられしものにしてこれによりて國語の理法に幾許(いくばく)の便宜を與へたりや量り知るべからず。」

また、フランス文學者の市原豐太(元國語問題協議會副會長)は、「言靈(ことだま)の幸(さきは)ふ國(くに)」の第二編「國語の愛護」(昭和六十年)の中で、芭蕉の「晝(ひる)ねぶる青(あを)鷺(さぎ)の身(み)のたふとさよ」の句をあげ、次のやうに述べてゐる。(この中の「たふと」は、現代かなづかい」では「とうと」となるが)「一方(前者)は美しく、他方(現代かなづかい)は平板です。一方は語源的に正しく、合理的ですし、ふのやはらかさがあります。他方は音移しに過ぎず、理から一歩離れ、うは硬いのです。合理的なものは美しく、非合理なものは醜い」と。

更にかう指摘する。「感覺的に言つて、ハ行の音は、もう少しで消えさうに、柔かく輕いのに對し、ア行の方は明確な代りに硬いのです。『やはらかく』は如何にも柔軟な感じです。ア行に闖入(ちんにふ)するワ行に至つては、どぎつく重苦しくなります。『やはらか』と『やわらか』の差異。新假名遣で最も重大な誤りの一つは、音韻の美しさを顧みぬ、このハ行をワ行に移したことです。」

現代假名遣では、「居る(ゐる)」「美しい」「思ひ出」の「ゐ」「い」「ひ」を一樣に「い」と表記することにしたが、これらは同じ音ではない。また、「思ふ」の「ふ」は「上野(うへの)」の「う」と同じ音だとして「う」とすることにしたが、この「ふ」は「う」と同じ音ではない。「大(おほ)きい」は現代假名遣では「おおきい」であるが、語頭の「お」は「明確で硬く」發音するが、語中の「お」は「柔らかく、軽く」發音する。從つて子音「h」を付し「ほ」と表記するのは自然で、理に適つてゐる。「匂ふ」は現代仮名遣では「におう」であるが、われわれは語中の「お」も「う」も「明確に硬く」發音してをらず、「もう少しで消えさうに、柔らかく輕く」發音してゐる(從つて「にほふ」と表記する)。さう發音し、さう表記した方が理に適つてゐるからある。

「表記法は音にではなく、語に隨ふべし」といふのが、われわれの主張である。歴史的假名遣は正にその原理のもとに成り立つてゐる。しかし、さうであつても、歴史的假名遣は日本語の音韻の美しい陰翳(ニュアンス)を見事に捉へてゐるのである。

國語問題協議會への<イヤミ>に反論する(高田友)

安田敏朗氏が著書「日本語學のまなざし」(三元社)の中で、「國語問題協議會」をイヤミ一杯に中傷してゐます。イヤミといふのは、安田氏が自ら「イヤミです。もちろん」と言つてゐるからです。私はヒラの會員ですので、安田氏を親の仇と付け狙ふほどの遺恨があるわけではないのですが、餘りに荒唐無稽と思はれる箇所がありますので、少しばかり、注意を喚起しておきませう。

安田氏は白石良夫氏の著書「かなづかい入門」の文を紹介してゐます。ポイントは次の點です。

現代仮名遣に取って替えられたときから、歴史的仮名遣は、不幸にも、文化や伝統の継承者という幻想を、一部の声高なひとたちによって背負わされたのである。

何をおつしやりたいのか、判りにくいところがあります。この箇所の直後で、國語問題協議會に罵詈雜言が浴びせられてゐますから、「一部の声高な人たち」とは我々のことを指してゐるのは間違ひないと思ひますが。

まづ、「文化や伝統の継承者という幻想」とは、どういふ意味なのでせう。そもそも「傳統の繼承者」などといふものは存在しない、と言ひたいのでせうか。進歩的な人々の中には、「傳統などどうでもいい。大事なのは現在と未來だけだ」といふ人が少なくありません。ある左翼の理科系の人が、「古文とか漢文とか、あんなものを教へるから、子供が反動的になるんだ」と洵に興味深い説教を垂れてゐるのを聞いたことがあります。

白石氏も、安田氏も、言語教育に關心はお持ちのやうですから、まさかさういふ意味ではないとは思ひます。しかし、まだ、その疑ひも殘るのです。もし、その疑ひのとほりでしたら、白石氏・安田氏は、「歴史的假名遣も現代假名遣も傳統など繼承してゐないし、また、繼承する必要もない」と言つてゐることになります。

「文化や傳統の繼承者という幻想」のもう一つ考へられる意味は、「繼承は必要なことだが、歴史的假名遣はその役割を果すことはできない」といふことでせう。さうだとすると、歴史的假名遣を貶めて、現代假名遣を讚美するからには、現代假名遣が「文化や傳統の繼承者」だと主張してゐることになりさうです。

以前、私は「國語國字」(國語問題協議會會報)に、白石氏の御意見に對する反論を書いたことがあります。今囘はちよつと違ふ觀點から邀撃してみませう。

歴史的假名遣を誹謗する人たちは、日本文化の傳承に消極的な傾向が強く、たとへば、「美しい日本語を暗記しよう」といふ提案に對して、「それは危險な考へだ」などといふ、ドグマティックな面からの攻撃をするのです。さういふ一派に屬するとしか思はれない白石氏・安田氏から「文化や伝統の継承者という幻想」といふ烙印を押されてしまふと、苦笑するしかありません。

安田氏は別の箇所で、「正しい表記」といふものは相對的なものに過ぎない、と言つてゐます(白石氏の意見でもありますが)。それにもかかはらず、國語問題協議會を始めとする傳統派(表意派)は、絶對的な正しさを主張してゐる、とおつしやりたいのです。いはば、傳統派は神學論爭をしてゐる、といふ趣旨なのでせう。神なんて、存在しないのに、それを探し求めて人生を無爲に浪費してゐる、といふ無神論からの批判だと言つてよいでせう。

さらに、白石・安田説は、非武裝中立論にも似てゐます。諸外國は國を守るために軍備を持つてゐます。ところが、日本だけは、特別に邪惡な國家であるから、世界でただ一國だけ、軍備を持つ資格のない國になつたのだ、といふのが非武裝中立論の論據でした。日本語だけが、發音どほりの表記でなければいけないといふのは、なんとこれに似てゐることでせう。

發音と表記が乖離するのは、文化國家の必然です。文字が發明された當初は、發音どほりの表記をしてゐても、次第に乖離して、その結果、こなれた表記が完成し、ここに言語ないし文化は一歩進んだ段階へと進化して行きます。英語では、同じiの長音「イー」を表記するのに、ceiling, teach, feed, fieldなどさまざまな表記が行はれてゐます。また、同じeaといふスペリングが、teach, bread, great, beard, pearlなど、單語によつて發音を異にします。

近現代になつて初めて文字を採用した發展途上國は別ですが、書き言葉の傳統の長い國の言語は、ことごとく、發音と表記が乖離してゐます。少なくとも、英獨佛に關しては、その乖離の程度の甚だしさは、歴史的假名遣の比ではありません。日本だけ、乖離してゐてはいけないといふ考へは、日本文化を輕視し、「こんな劣等民族が、進化した言語表記法を持つ資格はない」といふ、日本惡玉論から生じてゐるとしか思はれません。非武裝中立論と稱する所以です。

「オエル(終)」を「をへる」と表記するのは、文語で「をふ」だつたからです。平安前期には、實際にwofuと發音されてゐました。しかし、下二段活用の動詞は、口語になつて、一齊に下一段活用に變はりました。見事な體系的轉換です。當時、終止形「をふ」の代用として使はれてゐた連體形「をふる」(wofuru)のuruがeruになり、woferuと變つたのです(woferuでなく、woheruだとか、あるいはoferuではないのか、などと揚げ足取りをされさうですが、その點についての説明は、スペースの關係で省略します)。したがつて、「オエル」の假名遣ひは、「をへる」以外にはありえません。

語源を辿れば、歴史的假名遣は、一つに極まります。つまり、嚴然として、「正しい假名遣ひ」といふものが存在するのです。一つに極まるといふことは、その正しさが「絶對的」なものであることを示してゐます。

「現代假名遣だつて一つに極まるぢやないか」などと冗談を言つてはいけません。現代假名遣の場合は、全く無意味な規則で、日本人の精神活動をがんじがらめに縛り上げ、無理矢理一つに決めたのです。結果的には一つに極つても、そのバックボーンになる論理が存在しません。現代假名遣が人爲的なスペリングであるのに對して、歴史的假名遣は、自然に發生したスペリングなのです。いはば、神が作つた「神爲的な假名遣」と言つても大過ありますまい。一緒にしないで下さい。

表意派と表音派は、根本的に人生觀が違うのではないかと疑はれる節があります。表意派は、宇宙には整然たる秩序があり、その秩序から美が生れて來ると信じてゐます。表音派は、世の中の存在は偶然の所産であると考へ、宇宙の意志などは認めませんので、手當たり次第の簡便主義に走ります。當座の便利に合致するならば、時空を超越した整合性や美しさなどはどうでもいいのです。言語といふものは、意志の疏通に役立ちさへすればいいといふものではありません。言語は思想を形成する、あるいは美しい生活をしたいと願ふ手段であります。

國歌「君が代」の歌詞が、「いわおとなりて」ではなく、「いはほとなりて」でなければいけないと主張するのも、日本語といふものが、あるいは特に、國歌といふものが、美しくあつて欲しいと願ふからに外なりません。もつとも、日本語の美しさを鼻で嗤ふ人々に向つて、このやうなことを言つても、實りのないことは承知してゐます。釋迦に説法といふべきでせうか。馬の耳に念佛といふべきでせうか。

それにしても、安田氏は、國語問題協議會が、「いわおとなりて」を「いはをとなりて」に變へるやうに要求してゐると書いてゐます。些細なことで因縁をつけたくはないのですが、「いはを」ではなくて「いはほ」です。ひよつとして、安田氏は、歴史的假名遣を修得していらつしやらないのではないかとの疑惑が生じます。歴史的假名遣の正確な所を知らなかつたら、それを勉強なさつた上で批判していただきたいと思ひます。

歴史的假名遣は、學べば學ぶほど、その味はひを堪能することが出來るやうになるものです。修得なさつたら、あるいは目から鱗が落ち、白石陣營を去つて、我々の砦に駈け込んでいらつしやるのではないでせうか。そのときは、過去の行がかりを棄てて、歡迎パーティを催させていただきます。

「垳」の廢止に關して(中井茂雄)

區劃整理が進む埼玉縣市で、日本で唯一ヶ所「垳」を用ゐた地名「垳」(がけ)(「垳町」「垳川」等に使はれてゐる)が廢止されようとしてゐる。これに對し、地名は郷土の歴史と傳統が刻まれた貴重な文化遺産であるとして、地元有志の呼び掛けにより「垳を守る會」が結成され、五月十三日に垳町會と共催で緊急集會が開かれた。

この集會で講演を行つた大東文化大學准教の宮瀧交二氏は、地名の意義について次のやうに述べられた。

  • 歴史的な地名が殘されてゐることによつて、その地域の特質(他の地域との違ひ、具體的には地形・歴史等)が浮彫になる。
  • 地名の語源等を學ぶことににより、地域に對する愛着や誇りが釀成される。
  • 逆に、どこにでもある地名からは、かうした特質(他の地域との違ひ、具體的には地形・歴史等)は窺はれないし、地域に對する愛着や誇りも釀成されにくい。


さらに、地名の存廢は、その土地に暮す住民の意向で決定すべきであるとし、新地名の候補案の中に現行地名の「垳」も含めるべきであるとしてゐる。

なほ、今後の活動として、垳町會を中心として署名運動等を展開して行くといふことである。

改定常用漢字表の表外漢字―字音語の交ぜ書きと部分的振仮名について―(上田 博和)

(轉載者註)原文の振假名は( )に入れて示した。

かつての当用漢字表(1946年)は「漢字使用の範囲」を示したもので、「この表の漢字であらわせないことばは、別のことばにかえるか、または、かな書きにする」「ふりがなは、原則として使わない」との注意事項があつた。「眉」は表に無いから、当用漢字表に従ふ限り「眉間」とは書けない。振仮名は使へないし「別のことば」も無いやうだから「みけん」と書くしかないが、「間」は表にあるからといふので「み間」と書く例があつた。これを漢字と仮名による〈字音語の交ぜ書き〉といふ。 

現在の常用漢字表(1981年)は「範囲」ではなく「漢字使用の目安」を示したものである。もつとも、「目安」とは「この表を無視してほしいままに漢字を使用してよいというのではなく、この表を努力目標として尊重することが期待されるものである」から、常用漢字表を尊重する限り、表外漢字はやはり使へない。

今回答申された改定常用漢字表(2010年6月)も現在の常用漢字表と同じく「漢字使用の目安」とされてゐるが、「基本的な性格」を解説した箇所に新たに次の一文が追加されてゐる。

改定常用漢字表は一般の社会生活における漢字使用の目安となることを目指すものであるから、表に掲げられた漢字だけを用いて文章を書かなければならないという制限的なものでなく、必要に応じ、振り仮名等を用いて読み方を示すような配慮を加えるなどした上で、表に掲げられていない漢字を使用することもできるものである。((7)頁)

「表外漢字は振仮名をつけた上で使用できる」とは、「振仮名をつけなければ使用できない」といふこと。「眉」は依然として表外漢字であるから「眉間」とは書けない。改定常用漢字表は「み間」と書いてもいいが、「眉(み)間」と書いてもいいと言つてゐるのである。どちらもまともな表記ではない。

「み間」のやうな〈字音語の交ぜ書き〉が奇怪であり、表内漢字も仮名書きにして「みけん」と書く方がまだましであるのと同じく、「眉(み)間」のやうな〈字音語の部分的振仮名〉も姿が悪く、かういふ場合は表内漢字にも振仮名をつけて「眉間(みけん)」と書くものである。

             *

さて、文化庁国語課は「平成21年度国語に関する世論調査」の一環として、全国16歳以上の男女4000人余を対象に「常用漢字表に関する意識調査」(2010年2-3月)を行ひ、その「速報値」を第41回文化審議会国語分科会漢字小委員会(2010年4月13日)に報告してゐる。その国語課作成の質問文(追加候補漢字の印象 問9)に曰く。

我が国では、漢字と仮名を交ぜた表記を用いるのが一般的です。この表記を読み取りやすく、分かりやすいものとするためには、漢字と仮名を適切に交ぜて使っていくという観点が大切です。

 
「我が国の一般的な漢字と仮名を交ぜた表記」とは〈漢字仮名交り文〉のことを言つてをり、「漢字と仮名を適切に交ぜて使っていく」といふのも「主要な概念には漢字を、漢字では表現できない助詞助動詞などは仮名を使ふ」との使ひ分けのことを言つてゐる、と見るのが自然である。かつての当用漢字改定音訓表(1972年)も答申の「前文」冒頭でかう書いてゐた。

我が国では、漢字と仮名とを交えて文章を書くのが明治時代以来一般的になっている。この漢字仮名交じり文では、原則として、漢字は実質的意味を表す部分に使い、仮名は語形変化を表す部分や助詞・助動詞の類を書くために使ってきた。

ところが、現在の国語課の認識はさうではない。質問文の続きを見てみよう。

例えば、「み間のしわ」よりも「眉間のしわ」、「とん着しない性格」よりも「頓着しない性格」の方が意味の把握が容易になると言えます。ただし、「眉間」「頓着」の「眉」や「頓」が読めないと判断されるような相手の場合には、「み間」「とん着」と仮名を交ぜて書くか、「眉(み)間」「頓(とん)着」と振り仮名を付けるといった配慮が必要になります。

 
「み間」のやうな〈字音語の交ぜ書き〉や「眉(み)間」のやうな〈字音語の部分的振仮名〉を漢字の読めない読者への「配慮」だとは、語の読みを示すためには国語表記の原則や姿が壊れても意に介さないわけである。

しかも、〈漢字仮名交り文〉を「漢字と仮名を交ぜた表記」と形式的に理解(即ち誤解)し、これが「我が国の一般的な表記」なのだと述べて、〈字音語の交ぜ書きと部分的振仮名〉を正当化するとは、驚くべきことである。

補記

第41回漢字小委員会の議事録によれば、国語課による意識調査質問文の中の「眉(み)間」といふ〈字音語の部分的振仮名〉を取上げて、出久根達郎委員は

「みけん」と「けん」も含めて振り仮名を入れた方がよろしいのではないか。

と発言し、金武伸弥委員も

新聞では、大体一つの熟語については基本的に眉間なら「けん」まで振るというのが原則になっています。

とそれに同意してゐる。これに対して、主任国語調査官は

国語審議会時代からの流れとしては、語のうちの表外漢字にだけルビを振るということで来ています。ですから、ここもこれまでの国語審議会時代の流れに沿った振り方をしたということです。……今回に関しては、通常の公用文式のスタイルにしたということでございます。

と回答した。今回の答申「改定常用漢字表」に「表外漢字にだけルビを振る」方針を変へたといふ記述は無い。

かつて時枝誠記は〈字音語の部分的振仮名〉について

最近の教科書には、「当用漢字」以外のものには、ルビを附けるといふことが行はれてゐるが、このやうなルビ方法といふものは、ルビの歴史にはない極めて変則的な方法であつて、これも「当用漢字」といふ非合理的な漢字政策の副産物として現れたもので、注目すべき現象であると云はなければならない。(「漢字政策上の諸問題」1951年1月、『増訂版 国語問題と国語教育』1961年10月 中教出版 195 頁)

と述べ、〈字音語の交ぜ書き〉についても、かう述べてゐる。

「や金」(冶金)、「語い」(語彙)のやうな漢字と仮名との抱合せによる表記が多く現はれて来て、これを醜態と見る向きもあるが、それは、現行の文字表記の原則、即ち漢字仮名交り文の原則から見ての評価であつて、当用漢字表の立場から云へば、経過的現象に過ぎないので、もしこれが不様ならば、全部仮名書きにするのがよいといふ主張が出て来るのが当然である。(『国語問題のために』1962年4月 東大新書 57頁)

「み間」といふ〈字音語の交ぜ書き〉を、時枝は〈漢字仮名交り文〉の原則からして、「醜態」と見たが、現在の文化庁国語課は「我が国の一般的な漢字と仮名を交ぜた表記」からして、「適切な配慮」と見るのである。

‐2010年9月12日記‐

日本語を整形するな(山田 弘)

 6月26日の朝日新聞に面白いインタビュー記事が載つてゐた。
 前日本語學會會長(國立國語研究所名譽所員/早大名譽教授)の野村雅昭氏が記者の質問に答へてゐるのである。
 タイトルは、おそらく朝日新聞が付けたのだらうが、「常用漢字を増やすな 日本語が亡びる」となつてゐる。
 このタイトルが目に入つた時、私は一瞬、「常用漢字を増やせ 日本語が滅びる」なのだと思つてしまつた。漢字制限を主張する人々が、日本語の將來を心配してゐるとは、夢にも思はなかつたからである。

 氏は「小學校で英語が本格的に教えられ出したら、ゆくゆくは、使い勝手の惡い漢字を持つ日本語が見向きもされなくなり、英語が公用語になるかも知れない」、「漢字に過度に依存しない身輕な日本語なら生き殘れる」とおつしやる。
 そして、その根據として、「表記の違いや同音異義語、異體字などが多い漢字を抱える日本語は、情報處理の負荷が非常に大きい」と言ふ。
 
 私が思ひ出すのは、パソコンが普及し始めた頃、やはり朝日新聞に、ある大學教授が寄稿して、「パソコンの普及によって、漢字が増えて行くのではないかと憂慮される」と書いてゐるのを讀んだときのことである。
 「憂慮」とは何だ、と私はあきれ果てた。(幸ひなことにその「憂慮」は當つたやうだ)
 この教授は、漢字を必要惡としか捉へてゐない。
 パソコンによつて、情報處理が簡單になり、漢字が使ひ易くなつても、とにもかくにも漢字は反民主主義的な性悪な存在である。したがつて、決して殖やしてはいけない、といふ硬直したイデオロギーに支配されてゐたのである。

 野村氏もその範に漏れない。
 戰後の國語改革の失敗は、これを推進した金田一春彦氏さへ認めてゐる。
 今どき、それを蒸し返して、終戰直後の改革論と同じ、何の新味もない漢字制限論を説くとは、何といふ時代錯誤であらう。かつて一世を風靡して、今やミイラと化した非武裝中立論にも比すべき貴重な存在である。
 珍しいといふ意味では、貴重な存在であるが、國立國語研究所には、この手の人が少くないと聞く。
 なるほど、かうやつて日本語は滅びに向つてゐるのか、と納得した次第である。

 終戰直後、「漢字はタイプライターで打てないから、世界の大勢について行けない」といふ意見が流行した。
 これに對して、福田恆存氏は、「將來必ずや、漢字の打てるタイプライターが出て來るに違ひない」と喝破した。
 その豫測はぴたりと的中した。この先見の明に、金田一春彦氏も脱帽したのである。
 言ひ換へれば、漢字は機械化に對應できないどころか、逆に、機械化が進めば進むほど、漢字の處理のしやすさが目立つて來る。
 ところが、そのやうな現實を見ない野村氏は、「字種や異體字の多い漢字の機械處理には厖大なコストと手間がかかつているのです。そんなムダをいつまで續けるのでせう」と漢字を誹謗する。
 
 氏は、「人間の漢字を覺える能力には限界がある」から、「12年間の學校教育でもおぼえきれ」ないと言ふ。
 しかし、石井勳氏などの實驗で實證されてゐるやうに、幼い子供ほど漢字に對して興味を覚えるものである。低學年で教へる漢字の數を殖やせば、現行の教育漢字・常用漢字の何倍でも憶えられるのではないかといふ観測が強くなつてゐる。
 かつて、「日本人は漢字の習得に時間と労力を奪はれるから、他のことを學ぶ餘裕がなくなる」といふ他愛もない俗論が流行した。
 今では、逆に、漢字の修得が子供の智能の啓發に大いに役立つてゐるといふことが證明されてきた。
 野村氏を始め、若い頃から、進歩的な國語改革に獻身して來られた方々にとつては、今更事實を認めることは難しいのだらう。
 共産主義の理想に憧れた末に、異國で地獄の苦しみを嘗めた伊藤律氏や岡田嘉子氏は、自由にものが言へるやうになつてからも、最後まで「共産主義は間違つてゐた」といふことはできなかつた。
 言つてしまつては、自分のレゾンデートルを失ふことになる。
 それに較べると、金田一春彦氏は立派だつた。
 もつとも、自分がどんな大罪を犯したかを理解することができなかつたから、ケロッとして非を認め、その後は何の責任も取らうとしなかつた。さういふ批判の聲も大きいのではあるが。

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送假名を伴ふ漢字の訓讀みを問ふ―日本漢字能力検定と全国学力テスト―(上田 博和)      

日本漢字能力検定協会理事長親子の不祥事が話題になつてしばらくのころ、友人が都内のJR車内で見たといふ漢検の広告をメールで知らせてくれた。
「1.怒りに声をフルわせる 
2.フルってご参加ください 
この2つの「フル」の漢字を書け」
これには笑つたが、残念ながら、実物を見のがした。
             *                
日本漢字能力検定漢検)の「個人受検用 受検要項」にある「準1級」の問題例を紹介しよう。
 「次の傍線部分の読みをひらがなで記せ。
  1・2は音読み、3・4は訓読みである。」
 「3 坐らにして天下の大勢を知る。
  4 こっそり賂いを取っていた。」
傍線の漢字「坐」「賂」の訓読みを問うたのである。            
訓読みとは訓(即ち漢字の意味)を読むもの。「坐」の訓は〔いながら〕であり、送仮名も「ら」とあるから、その訓読みは「いながら」である。同様に、「賂」の訓は〔まいない〕であり、送仮名も「い」とあるから、その訓読みは「まいない」である。(正しくは「ゐながら」「まひなひ」だが、問題文に従つて「現代仮名遣い」表記にしておく。)
しかるに、漢検は「いなが」「まかな」を正答としてゐる。「賂」の訓を〔まかない〕と錯覚した上で、送仮名を「漢字の読みではない」と誤解して、引算したのである。漢検のこの訓読み観送仮名観は昔からのもので、私の問合せに対して、かつて漢検本部は「送仮名まで書くと誤答となる」と回答したことがある。
しかし、「いなが」や「まかな」には〔いながら〕や〔まかない〕といふ意味は無いから、これらは漢字「坐」「賂」の訓読みではない。                   
             * 
平成22年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が4月22日に実施され、翌日の各紙朝刊に報道された。「――線部の漢字の正しい読み」を問ふ設問のうち、「慣れる」(小学校第6学年「国語A」)「導く」(中学校第3学年「国語A」)の二問が訓読みを問ふものである。
掲載された正答例が「な(れる)」「みちび(く)」となつてゐるのは、解答用紙解答欄枠内の下方に、小学校用が括弧付で「(れる)」中学校用が括弧無しで「く」と、それぞれ印刷してあるからである。送仮名は読みの一部を示す仮名であり、正答の一部をなすのだから、解答欄枠内に予め印刷するなら、括弧無しで示すのが適切であり、正答も「みちび(く)」ではなく「みちびく」とすべきところである。 
さて、解答欄枠内の印字を無視して(「な」「みちび」でなく)「なれる」「みちびく」と書いたらどうなるか。実際には解答欄が「なれる(れる)」「みちびくく」となるが、「漢字の正しい読みを書け」との問に対して「なれる」「みちびく」と書いたのだから、誤答のはずは無い。この種の解答は「許容する」といふのが、昨年の私の問合せに対する当局の回答であつた。漢検とは異る扱ひである。
             *                
いづれにしても、送仮名の処理で受検者を迷はせないやうに、この種の設問では、送仮名も含めて「坐ら」「賂ひ」「慣れる」「導く」全体に傍線を引き、「傍線部をすべて仮名で書け」などと問ふのが親切である。漢字の振仮名を問ふのなら、「ゐなが」「まひな」「な」「みちび」が正答となるが、さういふ語の断片を答案に書かせるのは教育的ではない。(2010年5月18日記)