國語問題協議會への<イヤミ>に反論する(高田友)

安田敏朗氏が著書「日本語學のまなざし」(三元社)の中で、「國語問題協議會」をイヤミ一杯に中傷してゐます。イヤミといふのは、安田氏が自ら「イヤミです。もちろん」と言つてゐるからです。私はヒラの會員ですので、安田氏を親の仇と付け狙ふほどの遺恨があるわけではないのですが、餘りに荒唐無稽と思はれる箇所がありますので、少しばかり、注意を喚起しておきませう。

安田氏は白石良夫氏の著書「かなづかい入門」の文を紹介してゐます。ポイントは次の點です。

現代仮名遣に取って替えられたときから、歴史的仮名遣は、不幸にも、文化や伝統の継承者という幻想を、一部の声高なひとたちによって背負わされたのである。

何をおつしやりたいのか、判りにくいところがあります。この箇所の直後で、國語問題協議會に罵詈雜言が浴びせられてゐますから、「一部の声高な人たち」とは我々のことを指してゐるのは間違ひないと思ひますが。

まづ、「文化や伝統の継承者という幻想」とは、どういふ意味なのでせう。そもそも「傳統の繼承者」などといふものは存在しない、と言ひたいのでせうか。進歩的な人々の中には、「傳統などどうでもいい。大事なのは現在と未來だけだ」といふ人が少なくありません。ある左翼の理科系の人が、「古文とか漢文とか、あんなものを教へるから、子供が反動的になるんだ」と洵に興味深い説教を垂れてゐるのを聞いたことがあります。

白石氏も、安田氏も、言語教育に關心はお持ちのやうですから、まさかさういふ意味ではないとは思ひます。しかし、まだ、その疑ひも殘るのです。もし、その疑ひのとほりでしたら、白石氏・安田氏は、「歴史的假名遣も現代假名遣も傳統など繼承してゐないし、また、繼承する必要もない」と言つてゐることになります。

「文化や傳統の繼承者という幻想」のもう一つ考へられる意味は、「繼承は必要なことだが、歴史的假名遣はその役割を果すことはできない」といふことでせう。さうだとすると、歴史的假名遣を貶めて、現代假名遣を讚美するからには、現代假名遣が「文化や傳統の繼承者」だと主張してゐることになりさうです。

以前、私は「國語國字」(國語問題協議會會報)に、白石氏の御意見に對する反論を書いたことがあります。今囘はちよつと違ふ觀點から邀撃してみませう。

歴史的假名遣を誹謗する人たちは、日本文化の傳承に消極的な傾向が強く、たとへば、「美しい日本語を暗記しよう」といふ提案に對して、「それは危險な考へだ」などといふ、ドグマティックな面からの攻撃をするのです。さういふ一派に屬するとしか思はれない白石氏・安田氏から「文化や伝統の継承者という幻想」といふ烙印を押されてしまふと、苦笑するしかありません。

安田氏は別の箇所で、「正しい表記」といふものは相對的なものに過ぎない、と言つてゐます(白石氏の意見でもありますが)。それにもかかはらず、國語問題協議會を始めとする傳統派(表意派)は、絶對的な正しさを主張してゐる、とおつしやりたいのです。いはば、傳統派は神學論爭をしてゐる、といふ趣旨なのでせう。神なんて、存在しないのに、それを探し求めて人生を無爲に浪費してゐる、といふ無神論からの批判だと言つてよいでせう。

さらに、白石・安田説は、非武裝中立論にも似てゐます。諸外國は國を守るために軍備を持つてゐます。ところが、日本だけは、特別に邪惡な國家であるから、世界でただ一國だけ、軍備を持つ資格のない國になつたのだ、といふのが非武裝中立論の論據でした。日本語だけが、發音どほりの表記でなければいけないといふのは、なんとこれに似てゐることでせう。

發音と表記が乖離するのは、文化國家の必然です。文字が發明された當初は、發音どほりの表記をしてゐても、次第に乖離して、その結果、こなれた表記が完成し、ここに言語ないし文化は一歩進んだ段階へと進化して行きます。英語では、同じiの長音「イー」を表記するのに、ceiling, teach, feed, fieldなどさまざまな表記が行はれてゐます。また、同じeaといふスペリングが、teach, bread, great, beard, pearlなど、單語によつて發音を異にします。

近現代になつて初めて文字を採用した發展途上國は別ですが、書き言葉の傳統の長い國の言語は、ことごとく、發音と表記が乖離してゐます。少なくとも、英獨佛に關しては、その乖離の程度の甚だしさは、歴史的假名遣の比ではありません。日本だけ、乖離してゐてはいけないといふ考へは、日本文化を輕視し、「こんな劣等民族が、進化した言語表記法を持つ資格はない」といふ、日本惡玉論から生じてゐるとしか思はれません。非武裝中立論と稱する所以です。

「オエル(終)」を「をへる」と表記するのは、文語で「をふ」だつたからです。平安前期には、實際にwofuと發音されてゐました。しかし、下二段活用の動詞は、口語になつて、一齊に下一段活用に變はりました。見事な體系的轉換です。當時、終止形「をふ」の代用として使はれてゐた連體形「をふる」(wofuru)のuruがeruになり、woferuと變つたのです(woferuでなく、woheruだとか、あるいはoferuではないのか、などと揚げ足取りをされさうですが、その點についての説明は、スペースの關係で省略します)。したがつて、「オエル」の假名遣ひは、「をへる」以外にはありえません。

語源を辿れば、歴史的假名遣は、一つに極まります。つまり、嚴然として、「正しい假名遣ひ」といふものが存在するのです。一つに極まるといふことは、その正しさが「絶對的」なものであることを示してゐます。

「現代假名遣だつて一つに極まるぢやないか」などと冗談を言つてはいけません。現代假名遣の場合は、全く無意味な規則で、日本人の精神活動をがんじがらめに縛り上げ、無理矢理一つに決めたのです。結果的には一つに極つても、そのバックボーンになる論理が存在しません。現代假名遣が人爲的なスペリングであるのに對して、歴史的假名遣は、自然に發生したスペリングなのです。いはば、神が作つた「神爲的な假名遣」と言つても大過ありますまい。一緒にしないで下さい。

表意派と表音派は、根本的に人生觀が違うのではないかと疑はれる節があります。表意派は、宇宙には整然たる秩序があり、その秩序から美が生れて來ると信じてゐます。表音派は、世の中の存在は偶然の所産であると考へ、宇宙の意志などは認めませんので、手當たり次第の簡便主義に走ります。當座の便利に合致するならば、時空を超越した整合性や美しさなどはどうでもいいのです。言語といふものは、意志の疏通に役立ちさへすればいいといふものではありません。言語は思想を形成する、あるいは美しい生活をしたいと願ふ手段であります。

國歌「君が代」の歌詞が、「いわおとなりて」ではなく、「いはほとなりて」でなければいけないと主張するのも、日本語といふものが、あるいは特に、國歌といふものが、美しくあつて欲しいと願ふからに外なりません。もつとも、日本語の美しさを鼻で嗤ふ人々に向つて、このやうなことを言つても、實りのないことは承知してゐます。釋迦に説法といふべきでせうか。馬の耳に念佛といふべきでせうか。

それにしても、安田氏は、國語問題協議會が、「いわおとなりて」を「いはをとなりて」に變へるやうに要求してゐると書いてゐます。些細なことで因縁をつけたくはないのですが、「いはを」ではなくて「いはほ」です。ひよつとして、安田氏は、歴史的假名遣を修得していらつしやらないのではないかとの疑惑が生じます。歴史的假名遣の正確な所を知らなかつたら、それを勉強なさつた上で批判していただきたいと思ひます。

歴史的假名遣は、學べば學ぶほど、その味はひを堪能することが出來るやうになるものです。修得なさつたら、あるいは目から鱗が落ち、白石陣營を去つて、我々の砦に駈け込んでいらつしやるのではないでせうか。そのときは、過去の行がかりを棄てて、歡迎パーティを催させていただきます。