日本語の泉
『日本語の泉』(和泉書院)山崎馨(神戸大學名譽教授)著
- 作者: 山崎馨
- 出版社/メーカー: 和泉書院
- 発売日: 2008/02
- メディア: 単行本
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「漢字の音讀み・訓讀み」「五十音圖」に始まり、日本語がどのやうに發展して來たかを分かりやすく解説してゐます。
古代からの日本語の變遷に興味を抱く人の中には、正漢字(舊字體)と歴史假名遣を重視する人が多いのですが、山崎氏もその範に漏れません。
「藝」(げい)と「芸」(うん)が別字であるのはよく知られてゐます。戰後の國字改革が、無分別な略字を作つたために、混亂が生じたのです。氏は、さらに類似の例として、「蟲」と「虫」を紹介してゐます。「虫」は、音が「キ」であり、そもそもは「まむし(蝮)」の意味ださうです。「虫」は「むし」ではないのです。
また、「君が代」の歌詞に觸れて、どうして「いわお」ではなく、「いはほ」にしなければいけないか、などを論理的に解明してゐます。
本書が一番力を入れてゐるのは、「上代特殊假名遣」です。
古代日本語には八つの母があり、i・e・oに亞種があつたといふ話です。現代語のi・e・oと同じ發音のものを「甲類」と言ひ、亞種を「乙類」と言ひます。ローマ字書きする場合は、乙類の母音にはウムラウト(點二つ)を打つて表記しますが、この書評では、パソコンの事情により、ウムラウトが打てないので、e(乙)と表記します。
萬葉假名の、この假名遣の書き分けについて、本書は、非常に見やすい一覽表を示してゐます。
壓巻は、この「上代特殊假名遣」に由來する、古代日本語の十個の母音法則です。氏はこの十大法則に A〜J の符號を付し、丁寧な解説を加へます。
古代日本語が「八母音體系」になる以前には、「三母音體系」(a,u,iだけ)の時代があつたやうだといふのです。そして、「i+a=e」といふ縮約が起つて、e(甲)が誕生しました。このやうにして、だんだんと母音の數が殖えて行つたといふわけです。たとへば、「咲く」に完了の助動詞「り」を付けた「咲けり」は、連用形の「咲き」に「あり」が接續し、saki-ariとなり、そのi-a がeとなつたために、「咲けり」となりました。それが、恰(あたか)も命令形(已然形ではない)に「り」が接續するやうに見える結果を生んだのです。(母音法則G)
「古代日本語は母音の連續を嫌ふ傾向が強かつた」といふことは、萬葉集を讀んでゐるとよく理解できることなのですが、その背景には、上の「i+a=e(甲)」のやうに、母音が連續すると別の母音に變る(あるいは片方が脱落する)現象があつたからだといふことが説明されてゐます。
また、「a+i=e(乙)」といふ法則もあります(母音法則H)。雨(あめ)は複合語の中では、雨傘(あまがさ)のやうに、「め」が「ま」に變ることがありますが、これは、この法則によるものです。そして、複合語の方が古い形であつて、「あま」に「安定劑に相當する助詞『い』」がついた結果、ama+i=ame(eは乙)となつて、「あめ」が誕生しました。
このやうな、面白い話がたくさん收録されてゐます。
本書は、言語問題・日本語問題に造詣が深い人にとつても、また、これからかういふ方面のことを勉強してみようといふ初心の方々にとつても、大いに啓發される所があるはずです。
「日本語の泉」は非常に分かりやすく書かれてゐます。本書では漢字の字音(音讀)のルビだけは歴史的假名遣でなく、現代假名遣に準據してゐますが、これも、初心者に讀みやすくといふ配慮からでせう。字音の假名遣と和語の假名遣は原理が違ひますから、統一性を缺くといふ非難は該らないと思ひます。
新漢字を使つてゐるのは殘念な氣がしますが、これも、戰後教育を受けた人には、正字では讀みにくいといふ現實がある以上、仕方がないことです。それだけに、一般の人には讀みやすいでせう。
すでに日本語の歴史に精通してをられる方々も、改めて、かういふ理窟だつたのかといふことを知れば、目から鱗の落ちる思ひがするのではないでせうか。
山崎氏は「飛鳥古京を守る會」の會長をなさつてゐるさうです。
なるほど、飛鳥の古京を守らうといふ氣持と、日本語の傳統を守らうといふ氣持は同じ所から出てゐるのだと納得されるのです。
廣い範圍の方々に讀んでいただきたいと思ふ名著です。