日本語を整形するな(山田 弘)

 6月26日の朝日新聞に面白いインタビュー記事が載つてゐた。
 前日本語學會會長(國立國語研究所名譽所員/早大名譽教授)の野村雅昭氏が記者の質問に答へてゐるのである。
 タイトルは、おそらく朝日新聞が付けたのだらうが、「常用漢字を増やすな 日本語が亡びる」となつてゐる。
 このタイトルが目に入つた時、私は一瞬、「常用漢字を増やせ 日本語が滅びる」なのだと思つてしまつた。漢字制限を主張する人々が、日本語の將來を心配してゐるとは、夢にも思はなかつたからである。

 氏は「小學校で英語が本格的に教えられ出したら、ゆくゆくは、使い勝手の惡い漢字を持つ日本語が見向きもされなくなり、英語が公用語になるかも知れない」、「漢字に過度に依存しない身輕な日本語なら生き殘れる」とおつしやる。
 そして、その根據として、「表記の違いや同音異義語、異體字などが多い漢字を抱える日本語は、情報處理の負荷が非常に大きい」と言ふ。
 
 私が思ひ出すのは、パソコンが普及し始めた頃、やはり朝日新聞に、ある大學教授が寄稿して、「パソコンの普及によって、漢字が増えて行くのではないかと憂慮される」と書いてゐるのを讀んだときのことである。
 「憂慮」とは何だ、と私はあきれ果てた。(幸ひなことにその「憂慮」は當つたやうだ)
 この教授は、漢字を必要惡としか捉へてゐない。
 パソコンによつて、情報處理が簡單になり、漢字が使ひ易くなつても、とにもかくにも漢字は反民主主義的な性悪な存在である。したがつて、決して殖やしてはいけない、といふ硬直したイデオロギーに支配されてゐたのである。

 野村氏もその範に漏れない。
 戰後の國語改革の失敗は、これを推進した金田一春彦氏さへ認めてゐる。
 今どき、それを蒸し返して、終戰直後の改革論と同じ、何の新味もない漢字制限論を説くとは、何といふ時代錯誤であらう。かつて一世を風靡して、今やミイラと化した非武裝中立論にも比すべき貴重な存在である。
 珍しいといふ意味では、貴重な存在であるが、國立國語研究所には、この手の人が少くないと聞く。
 なるほど、かうやつて日本語は滅びに向つてゐるのか、と納得した次第である。

 終戰直後、「漢字はタイプライターで打てないから、世界の大勢について行けない」といふ意見が流行した。
 これに對して、福田恆存氏は、「將來必ずや、漢字の打てるタイプライターが出て來るに違ひない」と喝破した。
 その豫測はぴたりと的中した。この先見の明に、金田一春彦氏も脱帽したのである。
 言ひ換へれば、漢字は機械化に對應できないどころか、逆に、機械化が進めば進むほど、漢字の處理のしやすさが目立つて來る。
 ところが、そのやうな現實を見ない野村氏は、「字種や異體字の多い漢字の機械處理には厖大なコストと手間がかかつているのです。そんなムダをいつまで續けるのでせう」と漢字を誹謗する。
 
 氏は、「人間の漢字を覺える能力には限界がある」から、「12年間の學校教育でもおぼえきれ」ないと言ふ。
 しかし、石井勳氏などの實驗で實證されてゐるやうに、幼い子供ほど漢字に對して興味を覚えるものである。低學年で教へる漢字の數を殖やせば、現行の教育漢字・常用漢字の何倍でも憶えられるのではないかといふ観測が強くなつてゐる。
 かつて、「日本人は漢字の習得に時間と労力を奪はれるから、他のことを學ぶ餘裕がなくなる」といふ他愛もない俗論が流行した。
 今では、逆に、漢字の修得が子供の智能の啓發に大いに役立つてゐるといふことが證明されてきた。
 野村氏を始め、若い頃から、進歩的な國語改革に獻身して來られた方々にとつては、今更事實を認めることは難しいのだらう。
 共産主義の理想に憧れた末に、異國で地獄の苦しみを嘗めた伊藤律氏や岡田嘉子氏は、自由にものが言へるやうになつてからも、最後まで「共産主義は間違つてゐた」といふことはできなかつた。
 言つてしまつては、自分のレゾンデートルを失ふことになる。
 それに較べると、金田一春彦氏は立派だつた。
 もつとも、自分がどんな大罪を犯したかを理解することができなかつたから、ケロッとして非を認め、その後は何の責任も取らうとしなかつた。さういふ批判の聲も大きいのではあるが。
 野村氏にも、現實を直視していただきたい。
 日本の子供にとつて、漢字を憶えるのは、アメリカの子供が英語のスペリングを憶えるほどにも負擔になつてゐない。
 江戸時代の末の日本人の識字率が世界一であつたことを想起すれば、野村氏(氏だけではないが)は途方もない虚言を弄してゐることになる。
 コンピューターによる情報處理も同斷だ。
 漢字を處理する機能はどんどん改善されてゐる。
 さらに技術が進歩することを考慮に入れれば、漢字はいくら殖えても、情報處理の障碍になるとは考へられない。

 最近では、憂鬱の「鬱」などの難しい漢字は、書けなくとも讀めればよいといふ考へが強くなつてゐる。
 それに對して、野村氏は「書けなくてもいいとなれば、その漢字が持つ意味が顧みられなくなります」と表音派とは思へない意見を陳述してゐる。
 そして、「振り假名をつけて難しい漢字をどんどん使えるとなれば、書くのはエリートで、大衆は讀めればいい、となりかねない」と素朴な民主主義論を展開する。
 高校生が英單語を覺える際には、優秀な生徒は、「これは英語を見て日本語が分ればいい單語。これは日本語を見て英語が言へなければいけない單語」と無意識の内に差別化して、能率的に處理して行く。
 母語と外國語を同斷に論ずることはできないにしても、「書けなくてはいけない漢字」と「読めればいい漢字」があるのは當然なことだ。
 その差別があつてはいけないといふのは、教條的な平等主義を、人間ならぬ漢字にまで適用しようといふのだらうか。

 氏によれば、また、「『怪しい』と『妖しい』で異なるニュアンスを書き分けても、それが語彙の豐かさを示す」ものではなく、「『あやしい』に代わる、耳で聞いて違いのわかる話し言葉を創造」すべきなのださうである。
 改革派の面目躍如たるものがあるが、その歸着する所、マスコミや知識人、いはば、エリートが音頭を取つて、國語そのものを人爲的に變へて行け、といふのである。
 上に述べた素朴な民主主義論に背馳することになる。

 數學は、神が作つたものを人間が解明してゐる、とはよく言はれる。
 言語は、人間が作つてはゐる。しかし、特定の人間が作るのではなく、自然の流れから生れて來るものに、神が干渉して、整然たる論理性を持つに至る、といふのが、私の理解である。
 私の理解を押付けるつもりはないが、エリートが音頭を取つて、言語の未來を人爲的に變へることはできない。
 無理に變へれば、言語自體が歪んだものになつてしまふ。
 
 薩摩藩は、幕府の隱密を惧れる餘りに、百姓に、わざわざ分りにくい言葉をしやべらせ、それがために、鹿兒島辨は外部の人には理解できない難解なものになつてしまつた。さういふ俗説を信じてゐる人が多い。
 これは嘘である。
 鹿兒島辨を分析すれば、北九州から南に行くに連れて、自然に方言が少しづつ變化して行くプロセスをきちんと辿つてをり、人爲が加はつた痕跡はない。
 そもそも、そのやうにして、權力者の意志で言語を變へることなど、できない相談なのである。
 「耳で聞いて違いのわかる話し言葉を創造」するとは、まさしく、その、不可能を可能にしようといふ空しい足掻きである。

 終戰直後のドタバタで、日本語は大きく歪められてしまつた。
 「日本語を廢止して、世界で一番美しいフランス語を國語として採用しよう」と主張した高名な作家がゐたが、戰後の國語改革は、そこまで極端でないにしても、據つて立つ所は、フランス語採用論と相通じるものがある。
 一言で言へば、國語に對する誇りがなかつたのだ。
 野村氏がどうお思ひになつてゐるかは知らないが、日本語は極めて美しい言語である。やたらな修正を加へて、最近の、整形だらけの女優のやうな存在に變へて欲しくない、と思ふのは私だけであらうか。